「動くわたし、動かないわたしー移動とまちづくりー」あなたは20年後の今日、どんな場所で何をしてる?

REPORT

「動くわたし、動かないわたし」=「動けるわたし、動けないわたし」なのか

石垣:で、一方、みんながこれは公共だよって言ってるから公共だというのとは反対に、特別にあなただから開かれている場所っていうのもおそらくあるなと思うんですよ。 これはよそ者だけど、そのコミュニティに持ち込んだ価値を承認されて、あなたは一種の価値を持ってきたからすこしそこからの利益を得てもいいよっていう承認のプロセスかなとも思うんですよね。

イベント冒頭で登場した村上慧さんが明らかにしていく「公共性」の開かれ具合って、被災地にいくとさらに顕著になっていく。「うちに泊まっていいよ」「あの公園を使っていいよ」と抵抗なくいうひとがいたりするんです。そこには、コミュニティの価値観としてそもそも人を助けあう文化が染みついていて。きっと、それはさまざまな経験から、自分たちがお金を払っているから使っていいではなく、困っているひとがいるから助けてあげようという公共の在り方が染みこんでいるから起きること。

なら、どうやったらそういった経験のない場所や、外から様々な価値観を持つたくさんのひとがやってくるような都市でもそのようにひとを対して優しくいられるんでしょう。そこで思い当たるのが、動く人動かない人の他にいるであろう「動けるひと動けないひと」の存在です。先ほどフリーライダーだと評した「動くひと」の生き方は楽しそうな反面、初期投資がいる生活で、健康体でどこにいっても問題なく生活できるようなひと、もしくは自信があるようなひとでないとむずかしいですよね。

じゃあ動けないひとにとって、動き続けているひとにとってまちってどんな存在なんだろうかっていう。まちが楽しいと思えるにはどうなったらいいか。そもそも「動けるわたし」は贅沢なのか。

「開かれた公共」が少ないと描写されることの多い都市にも都市なりのワクワク感があって、世界中にはクリエイティブシティといわれる創造的なひとたちの暮らしもある。イノベーションを起こしているアメリカのシリコンバレーやポートランドには、そこのまちに住みたいっていう、ひとびとのワクワクも詰まってたりする。

それに、人が多く集まるからこそ提供できるサービスを多く持つ都市だからこそ見つけられる公共もあると思うんです。実際に家を持って移動を繰り返した村上慧さんは、ものすごいヒントを見つけています。

「僕は家というよりも寝室を持ち歩いているだけで、トイレやお風呂の機能はまちのなかにある。家を置いた周囲数キロが僕の家になると思ったらどうだろうか。毎日違う家に生きているはず。」と彼は言っています。「今日もトイレはコンビニだ、今日のトイレは道の駅だ、今日のトイレは誰々さんの家だ」とまちのなかが自分の家の間取りのようになっていくんですね。

だから、まちを自分のものにする、自分の家の間取りを広げるような感覚でまちのなかに落ちている公共のスペースを自分でつかってみるというアクションが、「まちを自分のものにする=新しい公共をつくる」という能動的で、ワクワクするアクションにつながるんじゃないかなと提案したいのです。

つまり、アクションとして「「動く」わたし、「動かない」わたし」がいるだということです。閉じきった生活からの脱却方法っていうのは移動して生活する以外にもいろいろあるんじゃないかなと。

スケールはさまざまにしろ、あなたが動くか動かないかでしかない。わたしからの提案としては「都市をつかえ」「ある場所をつかえ」と、自分の暮らしの間取りを広げる旅をしてはどうでしょうかというところですね。

>>ページ7石垣綾音「土地は誰のもの?まちづくりは誰のために誰がする?」

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