「動くわたし、動かないわたしー移動とまちづくりー」あなたは20年後の今日、どんな場所で何をしてる?

REPORT

その土地の公共をよそ者が「享受する」ということ

石垣:「移動しながら生きるひと」というのは、結局行く先々のインフラを頼りに生きている。いわゆる「フリーライダー」と呼ばれる生きかたで、移動しないひとたちの生活基盤がないと生きていけないんです。

わたしは村上さんの取り組みを批判したいのではなく、彼の行動の記録から見えてくるのはまちってすごい大切な存在なんだということ。国連の統計でも世界の人口の約50パーセントが都市に集中している。なぜ、都市にひとが集まるかというと、生産・福祉・コミュニティの維持と経済システムがあるからなんです。

それこそ人類の歴史を紐解くと、ひとが定住をはじめたのは農業をするため。生産するため、ご飯を食べるためなんです。そういう場ができると、生活が安定するので、福祉のシステムが生まれて、弱者を助けることができるようになった。

つまり、都市の一員であれば、コミュニティの財産としてアクセスできるものが多くて、個人として全てのリソースを持っていなくても生活ができるし、コミュニティを維持して経済をまわしていけることこそが都市の基本構造といえます。

そのため、「公共とフリーライダー」はすごく切っても切り離せない問題です。たとえば、これは「ピーナッツ」です。ルーシーの弟(ライナス)が気持ちよく寝ていると、ルーシーが「日焼けしたいから、どいて」と。弟が「邪魔をしないでよ」というと、ルーシーは「あなたが、日光をぜんぶ使い果たしたらどうするの?」と理不尽に怒るんです。でも、日光って公共の最たるもので、空気や日差しには値段がつきませんよね。

こうした減らないものや皆に平等に与えられるものについては誰も文句をいわない。でも、土地のようにだれかが使うことで他のひとが使えなくなったり、誰かが削りとってしまったらここのひとたちは享受できなくなってしまったりということが起きる。

だから公共を考えるときにこれが他人とわたしと同じようにシェアできるものかそれともそのときはわたしだけのものになるのかっていうのを区別することはとても大切なことだと思うんですね。さっきのルーシーたちのやりとりのようにならないように。

それに、税金を出し合って道路が舗装されたり橋がかかったり公共のトイレができたりって、わたしたちが知らない間にまちに貢献しているってことなんですね。自分がその土地の経済や生産関係に寄与しているということをみんながなんとなく理解している。そういった住民としてのはたらきが認められているからこそ供与される利益に対してはみんな何の問題もなく、これは公共のものだからわたしも使えると思っているわけです。

とりあえず公共というコンセプトと、なんでそれが公共なんだろうとか、なんでまちのなか家を背負って歩いているときに拒否されることもあると、なんで拒否したくなるかっていう気持ちもわかってもらえたらいいなというのがここまでのお話です。

>>ページ6石垣綾音「「動くわたし、動かないわたし」=「動けるわたし、動けないわたし」なのか」

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